日系人が神様のように見えた経験をした。メキシコ大学院大学(COLMEX)での資料収集を主目的に、メキシコ?シティを訪れた2017年2月のことである。土地特有の大気汚染、空気の乾燥、昼夜の寒暖差、高地ゆえの酸素不足に加え、何かよくないものを食べてしまったらしい。日に日に体調が悪化していくなか、数日間はアポ等を何とかこなしたものの、ある日、限界寸前に至った。のど、腹、頭など全身がどうかなってしまったようだった。
気がつけば民泊先の住人は仕事で出払っていて誰もいない。そこで、契約している保険会社に連絡を取って市内の診療所を紹介してもらった。這うようにして行ってみると、教えられた場所にあったのは看板も何もない民家で、中に入ると高齢の日系人医師が迎えてくれた。日本語がぺらぺらなのに驚く間もなく、からだの具合は限界に達し、自らの体調を説明しながら不覚にも意識を失ってしまった。
振り返ると、先生を訪ねるのがもう少し遅かったら、もっと厄介なことになっていたかもしれない。そのときは臀部に注射を打たれ、いくつかの薬を処方してもらっただけだったが、すぐに効果が出始め、2日後にはほぼ復調した。そして、残りの3週間近く、調査計画をほぼすべてこなすことができた。診断が的確だったのだろう。
後日、この経験をメキシコ通の元外交官に話したら、興味深い歴史的背景を教えてくれた。日本とメキシコ両国は戦前、「医師自由営業協定」(1917~28年)を結んでいたため、日本の免許を使ってメキシコで医業を営むことができた時期があった。当時、メキシコは革命期の内戦のあおりで、農村部が荒廃し、医師不足に悩んでいたことが協定締結の背景にあった。協定に基づいて海を渡った日本人医師の子孫が親の職業を受け継いでいった結果、メキシコには日系の医師?歯科医が多いという。元外交官ご自身もメキシコ駐在中に日系人医師に何度も世話になったとのことだった。
実は、私は診療所で先生の生い立ちを少し聞いていた。意識がもうろうとしていたため、不正確なところがあるかもしれないが、概略は以下の通りである。話を聞いたとき先生は84歳だった。メキシコ生まれである。戦前、まだ子供だったころ、親の実家がある九州に里帰りしたことがあった。しかし、メキシコに再び戻ろうとした直前、真珠湾攻撃により日米開戦に至り、帰国できなくなったという。先生はそのまま10代の大半を戦時下の日本で過ごした。日本語が達者なのはそのためだ。20歳前にメキシコ帰国がかない、そこから猛勉強して医師になったそうだ。父親が医師であったかどうかは尋ねなかったが、帰国してすぐに医学の勉強を始めたようなので、日系人に医師が多かったことと無関係ではないはずだ。
先生の診察手法は「徹底的に聞く」ことだった。こんな症状はあるか、あんな症状はあるかと畳みかけ、持病や過去の健康診断の結果も細かく質問することにより、原因を絞り込んでいく。当初は、民家風の診療所のうえ、先生が高齢だったため、的確な診察をしてもらえるのかと不安を覚えたのだが、今思うと大変失礼な思い違いだったと反省している。日系人の名医と出会えたことは幸運だった。
欧宝体育平台_欧宝体育在线-app下载 大学院総合国際学研究科
国際社会専攻
博士後期課程 松野 哲朗
【掲載日:2017.7.11】